カーサ・ノストラ その1

コーサ・ノストラ(La Cosa Nostra)とは、イタリア語で「我らのもの」を意味しています。一般的にはマフィアとして知られる秘密結社的犯罪集団とされていますが、正確にはマフィアとコーサ・ノストラは区別されています。マフィアという呼称は、時期は不明ですが18世紀末から19世紀初頭にイタリアのシチリア島で発生して、19世紀末から始まったアメリカへの移民と共に、イタリア国外へと進出して世界的な組織と成長してきました。

その一方で、コーサ・ノストラは第二次世界大戦中にアメリカが強制送還したラッキー・ルチアーノに対してつけられた組織(ギャング)を言います。

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カーサ・ノストラの構造

ボスを頂点とするピラミッド型の構造を持っています。忠誠心と暴力による恐怖支配によって組織を維持しています。秘密結社でもあるので、組織について沈黙を守るよう定める血の掟によって、その実態が表面化することはありませんでした。麻薬・売春などの犯罪はもちろんですが、公共工事への介入などもしているので、活動としては多岐に渡っています。

イタリアとアメリカのマフィアには根っ子は同じとしてお互いの交流があると言われてきましたが、世代の交代や時間の経過もあるため、昔に比べてその関係は薄くなっていると推測されています。

別の呼び方

彼らが自分たちの組織を呼ぶ時に「名誉ある社会」と表現する場合もあります。そして、個人の場合には「名誉ある男」という言葉を好んで使っています。また、マフィアと一般人を区別するときに、単に「我々」という言葉も使われています。例としては「彼は我々の友人だ」という場合には、彼もマフィアの一員であるという意味合いで使われます。「彼は私の友人だ」という場合には彼はマフィアの一員ではないという意味になります。

入会の儀式

1.新規入会者は、ひとけの無い場所へと呼び出されます。

2.呼ばれた場所に入ると、3人のマフィア構成員がいて、彼たちから入会の意思確認がされます。

3.意思確認に同意すると、沈黙の掟などの「名誉ある男」として守るべき掟が伝えられます。

4.そして、どちらの手で銃を持つか?と尋ねられます。

5.差し出した手の指にピンを刺して、聖母マリアが描かれた紙に、ピンを刺した指先から出た血をつけます。

6.それから、血の付いたその紙を両手で包むように持ちます。そして、その紙に火がつけられます。

7.そして紙を持ったままで、「私が誓いを破る事があれば聖人の貴方の様に我が身も燃え尽きる」と唱えて誓いを立てます。

この儀式を終えて、「名誉ある男達」の正式な一員となります。

アメリカ・コーサ・ノストラの歴史 その1

新天地アメリカへ

19世紀末に、イタリアからアメリカへの移民が急増し始めました。そしてその移民者のほとんどは南イタリア出身でした。彼らが自由と成功を夢見て海を渡った新天地アメリカでの生活は厳しく、移民としては新参者でもあった彼らに対して、アメリカ市民の目はとても冷たく厳しいものでした。移民達のほとんどはニューヨークなどの東海岸へと居住しましたが、それから次第にシカゴやアメリカ南部の方へも広がっていきました。そして、彼らの中から犯罪に手を出す者が現れ始めました。そして移民者と共に海を渡ってきたマフィアたちも、密かに活動し始めていきました。

1890年10月15日(明治23年)、アメリカ南部の町ニューオーリンズで警察署長だったデイブ・ヘネシーが何者かによって暗殺されるという事件が発生しました。犯人は当時、ニューオリンズの支配権をプロベンツァーノ・ファミリーと争っていたマトランガ・ファミリーでした。マトランガ・ファミリーはヘネシー署長が敵対していたプロベンツァーノ・ファミリーを庇護していると思って、ヘネシー署長を殺害しました。

そして捜査の結果、マトランガの構成員達は逮捕されましたが、翌年1891年3月13日の判決で、構成員たち下された判決は証拠不十分で無罪のになりました。この無罪という判決に対して、ニューオリンズ市民は激怒して「犯人を出せ!」と叫びながら、マトランガの構成員達が収監されていた刑務所に押し入り、彼らを集団リンチしました。

そしてこのニュースはアメリカだけではなく、ヨーロッパにまで知れ渡る事態になりました。その当時の大統領だったベンジャミン・ハリソンがイタリア政府に謝罪することになり、犠牲者の遺族たちに賠償金を支払う事態へとなりました。

そしてこの事件がアメリカでのマフィアによる初の抗争事件となりました。

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マーノ・ネーラ

19世紀末から20世紀にかけてはどうだったのでしょうか。ニューヨークの暗黒街には様々なギャング団たちが存在していました。彼らはアイルランド系、ユダヤ系などといった民族ごとに集団化していきました。そして賭博や売春などを稼業としながら、お互いの縄張り争いをしていました。イタリア人の犯罪者たちも、彼らのようなギャング団たちのように犯罪集団を作り始めていきました。その中でも特に有名なのが「マーノ・ネーラ」です。通称「黒い手」と呼ばれるギャング達です。マーノ・ネーラの生業は主に商店へのゆすりを生業としていました。マーノ・ネーラは相手に手紙を送りつけて、金を払わなければ殺すと脅していました。そしてそのゆすりの手紙には、黒い手形のマークをつけていたので、別名黒い手とも呼ばれた名前の由来です。

1901年(明治34年)、シチリアからヴィト・カッショ・フェロ(ボス中のボス。ドン・ヴィーとも呼ばれた)がアメリカへ渡航してきました。そしてニューヨークでマーノ・ネーラ達と接触して、犯罪組織としてはまだ未熟だった彼たち「マフィア流の商売」の仕方を教えていきました。ヴィト・カッショ・フェロは、シチリアマフィアで、一番最初にボス中のボスと呼ばれて、表の社会では上流社会の名士を気取り、裏ではマフィアのボスとして君臨。シチリアの民衆からの尊敬を受け、ドン・ヴィートが配下の村を訪れると、民衆は彼の手にキスをするほど愛されていました。

1903年(明治36年)、ニューヨーク市警のジョゼッペ・ペトロジーノ(後に暗殺)がマーノ・ネーラの幹部たちの逮捕に成功しました。捕えられたのは、ボス格でもあるジュゼッペ・モレロ、シチリアでノタルバルトロ侯爵殺害に加わったジュゼッペ・フォンターナ、そしてヴィト・カッショ・フェロも含まれていました。しかしその後に、逮捕された彼たちは証拠不十分で釈放されました。

1907年(明治40年)、彼たちマーノ・ネーラは当時人気を博していたイタリア人歌手エンリコ・カルーソー(オペラ史上最も有名なテノール歌手の一人)に脅迫状を送りつけました。ペトロジーノはイタリア系犯罪組織に関する調査を進めるために1909年イタリアへと渡航しました。ニューヨーク警察は、イタリア系アメリカ人の犯罪に関する情報収集のためにイタリア警察と手を結び、ペトロジーノを捜査責任者に抜擢したこともあり渡航することになりました。しかし、ペトロジーノの調査活動のシチリア行きは、事前にニューヨーク・ヘラルド紙により事前に公表されていたこともあり、パレルモに到着して間もなく、ペトロジーノはマリーナ広場でヴィト・カッシオ・フェロによって4発の銃弾を浴びて暗殺されました。

それから、シチリア・マフィアとマーノ・ネーラは緊密な関係を築き上げるようになり、マーノ・ネーラは次第にマフィアとしての性格を帯び始めて、商店主への保護料要求や、闇賭博。そして売春などでさらに富を得るようになり、犯罪組織として成長していきました。