シチリア・コーサ・ノストラ その1

マフィア誕生

シチリア島はマフィア発祥の地です。シチリア島は、地中海のほぼ中央に位置しています。その位置は、イタリアとチュニジアを結ぶ中間点に位置しているので、古代から近世にかけて様々な民族による侵略を受けることになり、長年に渡って諸外国の勢力下に置かれていました。シチリアには近年まで自治行政府は存在していませんでした。数世紀にも渡って大土地所有制度の下で、貴族などの権力者によって住人達は抑圧されてきた土地柄です。シチリアに主権が与えられたのは、驚くべきことに1947年(昭和22年)つまり第二次世界大戦後のことです。

長期間に渡り続いてきた外国からの支配により、また支配する側の失政と腐敗構造によって、かつては農業の盛んだったシチリアの国土は荒れ果てることになり、山賊などのならず者たちがはびこる島へとなっていました。このために島の住人たちは公権力に対して、とても強い不信感と嫌悪感を抱くようになりました。シチリア人にとっては、「公権力に頼ること」や「公権力に協力すること」は、非常に不名誉なことになり、「公権力に頼らず、自分の力で問題を解決していくこと」が名誉ある生き方として、考えられるようにとなりました。

18世紀にシチリアに領地を持っていた貴族や地主たちは、ナポリやパレルモ等の都市部に居住していました。領地の経営や、自分達の領地に住む小作農民への関心はとても薄いものでした。貴族や地主たちから広大な農地を貸与された農地管理人(ガベッロット)たちは、地主たちの無関心を利用していきます。領地からの収益を地主に不正申告して、余ったお金を小作農民達に法外な利子をつけて貸しつけをしたり、また当時は非常に儲けの大きかった家畜泥棒などをして私腹を肥やしていきました。そして彼たちは農地監視人(カンピエーレ)という農地を、山賊や盗賊から守るためだけに人間を雇い入れるようになり、次第に地主達からその権利を奪い取っていきました。さらに、貴族・政治家・教会・警察などの上流階級の人達や小作農民、山賊たちをもも取り込んでいくことで、その勢力を拡大していきました。彼ら農地管理人と農地監視人が、それから後にマフィアと呼ばれる組織の母体となったと言われています。

こうして誕生したマフィアですが、シチリアの住人に対して「無能で高圧的な公権力に対し、誇り高く名誉ある男として振る舞う男たち」というイメージを、だんだん刷り込んでいきました。シチリアの大衆も、誇り高き名誉ある男として振る舞う彼たちに幻想を抱くようになり、さらに救いの手を求めるようになっていきました。

マフィアかっこいいよマフィア

誘拐事件

1877年(明治10年)ジョン・フォスター・ローズ誘拐事件は、マフィアが起こした事件の中でも、最初に世界を驚かせ震撼させた誘拐事件です。

1877年11月にジョン・フォスター・ローズ名前のイギリスの銀行家が、自らが所有しているシチリアの土地を見に訪れたときにマフィアのボス、レオネに誘拐された事件です。

ローズを誘拐したレオネは、莫大な身代金を要求しました。その莫大な身代金を払えないという返事が届くと、ローズの耳と鼻をそぎ落として、送りつけました。そのためイギリスの新聞は募金を呼びかけることになり、身代金を支払いローズは解放されたという事件です。

その後に、イギリス政府はイタリアに対してレオネを逮捕するよう要求しました。そして逮捕が行われなければ、軍隊を上陸させるとも通告したともいいます。そしてイタリア政府は1年の時間をかけてレオネを逮捕することに成功しました。レオネは裁判で終身刑を受けましたが、その後脱獄してアルジェリアに逃げたといいます。

侯爵殺害事件

1893年(明治26年)2月1日に、マフィアが政治に介入した象徴的な事件として、元シチリア銀行頭取のエマヌエレ・ノタルバルトロ侯爵殺害事件が挙げられます。犯人として名前があがったのが、政治家のラファエレ・パリッツォーロと彼の友人でもあるマフィアのボスでした。

事件の原因は、ラファエレ・パリッツォーロが手形を偽造して銀行から融資を受けていたことを、ノタルバルトロに感づかれてしまったからが発端です。しかし、マフィアがあらかじめ各方面に手を回していたこともあって、当局はこのことに関して調査しようともしませんでした。そしてこの事件を捜査しようとした捜査官たちは左遷されることになり、直接殺害に関与したマフィア達もまともに審議されずに釈放されてしまいました。

このような事柄に憤慨したノタルバルトロの遺族は独自で調査を行い、裁判を要求することになりました。そしてイタリア本土で裁判が行われることになり、遂にパリッツォーロたちに下った判決は有罪判決でした。

しかし、このことに対してシチリアの有力者たちは激怒します。彼たちが結成した「親シチリア委員会」は、「シチリア人が迫害されている! シチリア人を陥れようとしている者達が、私たちにマフィアというレッテルを張ろうとしている!」といったキャンペーンを展開します。そして、裁判のやり直しを要求していきました。その結果、再度裁判が行われることになりました。そして事件から11年後の1904年に、パリッツォーロたちは無罪放免となりました。シチリア人たちは公権力に勝利したとして大いに満足することになり、それ以降「マフィア」という言葉はシチリアでは禁句となりました。

イタリア以外への進出

19世紀から20世紀にかけて、ますますマフィアたちの勢いは加速していきます。それまでは主に農村地帯がマフィアの本拠地でしたが、パレルモなど都市部へもその勢力を拡大していきました。また、19世紀末にアメリカ合衆国への移民増加と共に、マフィアたちも海を渡りました。そして映画「ゴッドファーザー」で知られるアメリカ・マフィアの始まりでもあります。

シチリアマフィアのドン、ヴィト・カッショ・フェロは、1901年(明治34年)にアメリカへと渡ります。ニューヨークのイタリア系アメリカ人の犯罪組織マーノ・ネーラ(Black Hand)と手を結び、犯罪の手ほどきをしました。彼らはアメリカマフィアの前身となり、シチリア=アメリカ間のマフィア・ネットワークを構築して強化していきました。

1909年(明治42年)、ドン・フェロはイタリア系の組織犯罪についての調査を行うためにシチリアを訪れているアメリカの警察官ジョゼッペ・ペトロジーノを暗殺することに成功しています。フェロ密貿易と保護料取立てから更に財を成していくことになり、20世紀初期の大物マフィアとしてその権勢を誇っていきました。

第一次世界大戦勃発の時には、軍用火薬の原料になる硫黄の産出地でもあったシチリアに戦争景気が訪れます。硫黄鉱山を保有していたカロジェロ・ヴィッツィーニ(通称ドン・カロ)は大いに私腹を肥やすことになりました。

ファシスト政権の時

マフィアは、政治家や有力者を取り込んでいき、邪魔な者は徹底的に排除(殺害)していき、沈黙の掟(血の掟)で守らていたマフィアたちですが、壊滅状況にまで追い込まれた時代が到来しました。それは、1922年(大正11年)から始まったベニート・ムッソリーニが率いるファシスト政権時代がまさにその時代です。

1924年5月(大正13年)、ムッソリーニがシチリアを訪問した際に「ここは、すべてが悪党どもの集団で、動くたびにマフィアの悪臭がする」とムッソリーニが秘書に述べたとも伝えられています。さらにシチリア中央部にあるピアーナ・デイ・グレージという町を訪問しました。この町の町長でいながら、マフィアのボスでもあったフランチェスコ・"ドン・チッチョ"・クッチャは、ムッソリーニに対して「警察に護衛してもらう必要などない。私がいれば何も問題ない」と護衛を減らすようにムッソリーニに求めました。しかし、ムッソリーニは町長の求めを一切無視しました。町長はムッソリーニの態度に激怒して、自分の町の住人に対してムッソリーニの演説を見に行くなとまで命じました。その結果、ムッソリーニの演説集会には、町の住人誰一人として集まることはありませんでした。

それから後、ムッソリーニは町長がマフィアであった事実を知ると、マフィア撲滅のため、1925年(大正14年)チェーザレ・モーリ(イタリアで鉄の知事と呼ばれた男)をシチリアに派遣しました。シチリアで知事として赴任したモーリは、徹底的に山賊狩りをして、それからのマフィア狩りは苛烈を極めることになり、ヴィト・カッショ・フェロを含む多数のマフィア構成員を刑務所に送り込むことに成功して、マフィアを壊滅状態に陥れることになりました。1929年9月(昭和4年)にモーリは、その追求の手をファシスト政権の要人にまで伸ばすようになったためこともあり、罷免されることになりました。しかし、マフィアたちはモーリが知事を務めた時期を「モーリの時代」と呼んで震え上がったといいます。

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、シチリアに連合軍が上陸しました。連合軍は刑務所にいた彼ら(マフィア)を解放してしまいました。さらに連合軍はカロジェロ・ヴィッツィーニ(ドン・カロ)をヴィッラルバ村の村長に任命、ヴィト・ジェノヴェーゼ(カーサ・ノストラの幹部)をアメリカ海軍司令部付の通訳に任命。多くのマフィア構成員を町長や村長などの政府関係者に任命しました。ファシスト政権崩壊後に、マフィア達は政治的にはキリスト教民主党との関係を深めていきました。

第二次世界大戦後

二次世界大戦後も、農村地帯を本拠としてたマフィア・ファミリーでしたが、1950年(昭和25年)に大土地所有制度が廃止されたのことと、イタリアに「奇跡の経済復興」と呼ばれる復興景気が訪れたのを契機に、マフィアたちは都市部へと本格的に進出することを始めていきました。そしてマフィア・ファミリーは建築ブームに乗じて政治家達と手を組んで、公共事業の入札を支配します。そして建築業者から現金を脅し取ることなどをして、大きな利益を上げるようになりました。

この好景気の中で大きく勢力を伸ばしたのが、サルヴァトーレとアンジェロのバルベーラ兄弟と、グレコ・ファミリーとコルレオーネのボス、ルチアーノ・リッジョです。彼たちは共にタバコ・麻薬密輸・公共事業への介入で、その勢力をますます拡大していきました。

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マフィア合同会議

1957年10月10日(昭和32年もしくは12日)に、アメリカ・マフィアの大ボスのラッキー・ルチアーノの提唱によって、パレルモにある高級ホテル「グランド・ホテル・デ・パルメ」で、アメリカのマフィアとシチリアのマフィアの大ボス達が集まって、初めての合同会議が開かれました。

会議の議題は、シチリアでの最高幹部会(コミッションまたはクーポラと呼ぶ)の創設することと、麻薬に関する双方の取り決めでした。この会議は4日間に続きましたが会議の結果、最高幹部会の結成することと、アメリカへの麻薬密輸などはシチリア側が取り仕切りることになり、アメリカ側はその利益の一部を受け取るということに決まりました。この後に、シチリアマフィアはアメリカへの麻薬密輸に本格的に乗り出していくことになりました。

マルセイユ経由のフレンチ・コネクションに対抗して、シチリアからアメリカそしてヨーロッパへのルートを確立させることでした。そのために、ヘロイン工場がシチリアで多く作られることになりました。ヘロインはオリーブオイルの缶に詰められて、年間3~4トンにも上る量がアメリカへ送られたといいます。